いつから僕は水たまりを避けて歩くようになったのだろう。
どうも朋也です。
雨が嫌だなー。と思うようになったのはいつからだろう。
小学校の頃は、雨の日だろうが何だろうが、楽しいことを見つけて楽しんでいました。
雨の日は、傘を持って出かけられるから、その傘を使ってチャンバラをやったり、友達と水を飛ばし合って戦ったり、水がしみ込んで重くなった靴をさらに水につけて、いつもと違う履き心地を楽しんだり。
そんな風にどんな日でも無邪気に遊んでいたな。と思います。
でも、いつからだろう。
水たまりを避けて歩くようになったのは。
昔だったら、自分から水たまりに喜んで走り幅跳びしたのにな。
これが、大人になるってことでしょうか?
だとしたら、僕は大人になりたくないな。と常々思ってしまいます。
たぶん、ハタチっていう世間一般に言う「大人」として扱われる年齢になるのがとんでもなく不快だったのは、大人になりたくなかったからだと思います。
↓「ハタチなんてなりたくねーよ」と叫んでいた10代の頃の記事。
なんでだろう
水たまりを避けていたのは何のためか。
それは、靴が汚れるとか、不快だからとか、無駄だからとか。そういうこともあると思います。
しかし、もっと深くにあるのは、「あきらめ」や「恐怖」でしょうか。
無邪気だった頃と、世間的に大人である今。
今、飛び込んでいっても、楽しくはない。
何も得られない。
それは、怖いです。
やっても、楽しくない。そう感じてしまう自分に恐怖してしまいます。
何にも興味が出なくなっていく、それは、自分に対するあきらめと、やっても楽しめない自分への恐怖というものがあるのかなと思います。
子どもの頃は何もやらなくても、何かをやっていても恐怖なんて感じなかった。
色んな事を知ってしまって、素直に楽しめなくなってしまった。
そんなこと言ったって人は日々いろんなことを経験して先に進んでいってします。新鮮さなんてないルーティンワークを繰り返していくうちに、楽しかったことも忘れてしまいます。
僕が幼いころから見てきた大人たちは、真面目に働いていて、大人としては多分正しいことをして生きていました。
ですが、子どもだった僕は、夢も希望も語らない大人はつまらないなと思っていました。
語らないではなく、語れないのかもしれません。責任があり、事情があり、生きるために必要だから。というのは今は理解できます。
僕も大人になってきてしまったからこそ、楽しいことを忘れて、大人になろうとしてしまっていたんだと思います。
でも、
僕はもっと楽しく、愚痴ではなく仲間たちと未来について笑って語り合って生きていきたいです。
馬鹿なことかもしれませんが、いくつになってもそんな風なヤツでい続けたいし、いてほしいと願っています。
僕は僕のまま。俺でもあるしお前でもあるし。変わっていくのは変えられないと思うけれど、いつだって、何をしていたって楽しかった日々の事は忘れないようにしたい。
辛いことは僕らをいつだって大人にしてくれるけど、子どもにはしてくれない。
楽しいことは僕らをいつだって子どもにしてくれる。
思い返すだけでもその時の気持ちが蘇ってくる大切な思い出。
もし、僕が辛いことで溢れて、楽しい思い出を思い出すこともしなくなって、無理やり大人になろうとしたら、それを止めてくれる。
もし、お前らが辛いことにあふれて、どうしよもなくなったら、楽しいことを思い出させてやる。
そんな奴で奴らといたいし、いてほしい。
最後に
生きていると大変で、辛いことは多いけど、いつだって、どんな時だって支えてくれるものがあるから前を向いて歩いてこれた。
一人だったらどうなっていたかはわかりませんが、仲間がいたから今の僕があると信じています。
だから、下を向いて、きれいな空すら見上げられなくなるような大人にはなりたくない。
楽しく前向きに生きていける子どもであり続けたい。と思います。
それは難しいことだとは思うけれどあきらめてしまったらそこで試合終了だと仰る先生もいるので、子どもの心をいつまでも持って生きていきたいです。
そんな感じです。
それでは、また。